2011年11月06日

雑感

こんにちは。
今日は早い時間の更新ですが、秋も深まりつつある中、皆様におかれましてはお変わりない日々をお過ごしのことと思います。

さて、今日も雑感をつらつらと書き述べるのですが、お客様の子供さんが我が家に遊びに来ています。
小学校6年生の女の子なんですが、私の娘の友達であり、お仕事の発生する前からの家族ぐるみのお付き合いでした。

昨夜は一緒に餃子を作って食べたり、テレビを見たりといった時間を過ごしました。
お仕事をさせてもらってから、まだ時間があまりたっていないのですが、
立ち居振る舞いや、話し言葉、
しっかりと成長されている姿を見させていただきました。

小さな身体で精一杯の背伸び、
微笑ましくも、ちょっぴりと寂しさというか、そんなものを感じたことでした。

うちの娘と並んでTVの前に座って、笑っている姿をみると、
子供と言うのはこうやって、屈託なく笑うのが一番なんだ、
そう、感じました。

大切なひとを亡くした後、
誰かと一緒に笑う事が出来るまで

それでも、悲しみは続くのだろうけれど。
人は、寄り添って生きている、
そんなことを感じた夜でした。

これから秋も過ぎ、やがては冬の到来です。
どなたも、くれぐれもご自愛を。
posted by ヤマモト at 09:52| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月09日

おもてなし

こんばんは。
今夜は仕事が入っている訳でもないのですが、印象深いお話をしてくれたとあるご住職のお話をつらつらとしようと思います。

その方はとある禅寺に就かれているのですが、禅といえば、お茶。
お茶といえば、客人のおもてなし。

少しアドバイスできることがあるかもしれないから、そんなお電話をいただいて出向いたのです。

到着すると、お仕事とはまた違った、優しい笑顔で迎えて下さり、境内に座りお茶を入れていただいて、小一時間ほども普段思っていることなどをお話させていただき、ご住職からもたくさんの言葉をいただいたのです。

その中に、
「ご葬家さんと葬儀、そのすべてに通じるものはやはり『おもてなしをする』という思いが大切なんじゃないかと思いますよ。」
そんな言葉がありました。

故人様に対してのおもてなし、ご葬家に対してのおもてなし、弔問者、参列者に対してのおもてなし、寺院さんに対してのおもてなし。

もてなす、ということは、敬意を払うことに他ならず、葬儀は「儀」として行うもの。
儀であるならば、最低限守らなくてはならないルールが厳然と存在し、そのルールも敬意を払うためのもの、

つまりはおもてなしをするためのものである、

そんなことを言われておられました。

ハタを膝を打つような思いがこぼれ出て、以前にこのブログにアップした、「畏れ」について夢中で話をしてしまいました。

あまりの楽しさ、そして嬉しさのようなものがこみ上げて、30分程度の予定が1時間ほども。

「ヒトと、人。あなたが言ってるのは、人としての感情ですよ。ヒトとしてではなく、ね。」

「生死(せいし)と言わずに、生死(しょうじ)と言うんですよ。生死(せいし)なら、境をまようこともあります。」

にこやかにそう話されたご住職は、

『確かに、あなたに渡しましたよ』
そんな風に、言葉を締めくくってくれました。

うれしい、出会いをひとつ、重ねることができました。
posted by ヤマモト at 22:33| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

ご縁

こんばんは。
今夜もお通夜の夜に、遅い筆をつらつらと滑らせています。
先日、とある方のご葬儀依頼のお電話をプライベートな携帯電話にいただきました。
しかし、別件の施行で会館が埋まっており、どうにもこうにも日程の都合が付けられず、ご縁をいただくことができませんでした。

その方は以前に、このつたないブログでもアップしたことのあるご葬儀の喪主様でした。

そのお仕事をいただいた折には、わずか3日のお付き合いをさせていただいたのですが、野に咲く花のような、とてもチャーミングで可愛らしい方でした。

とても印象深い、会社でもいまだに語り継がれるようなご葬儀でした。

お通夜の夜は、別件でのお通夜の司会を済ませ、あわてて駈けつけました。

お顔を見させて頂き、喪主様と少しだけお話させてもらったときに、
こんなすごい方のご縁をいただけなかった悔しさと、前の仕事の中で触れさせてもらった、故人様の優しさを思い出し、ついつい、ほろりとしそうになってしまいました。

仕事でいただいたご縁なのに、

仕事でいただいたご縁だからこそ、なのでしょうか。

いただいたご縁、いただけなかったご縁、きっとどれも、自分自身の足跡なのでしょう。

ご縁を大切に、なんて言葉がありますが、

これからもそのご縁を頼り、そして、大切にお仕事をしていこうと思っています。
posted by ヤマモト at 23:59| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月01日

宗教と哲学

こんにちは。
ご葬儀明けの、とても暑い、抜け切った青空の広がる日になりましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

今日は早い時間の更新なんですが、最近、とあるご住職からお伺いした興味深いお話を。

宗教者であるその方の、仏教、宗教の捉え方について、なのですが とても独特の感性をもっていらっしゃるのです。

「宗教とは、哲学の一種、手段として存在する」

そんな事を言われておりました。

例えば、モーゼの出エジプトのように海が割れて道が、

とか、

あくまで一例にすぎませんが、宗教に君臨(?ごめんなさい、どう表現していいかわからないので)する、ありとあらゆる偉人達が起してきた 後世に伝えているあらゆる奇跡というもの。

それはあくまで、
「それだけ凄い事をしてしまうような人が言っている哲学なのだから」という、味付けにしか過ぎないのではないか。

科学が未発達だった時代に、超常現象を信じてしまう民衆を導くための一種の方便だと考えれば、そんな話が後世に伝わっている意味が見えてくるのではないか。

そんなお話をしてくれました。


「仏教自体も、今現在は多宗派に別れてはいるけれど、お釈迦様の説かれた哲学こそが源流であり、解釈の違いで分派しているだけ。

心のよりどころとしての、偉人の起こした奇跡の話はたくさんあるんだけどね、

私は哲学がやりたくて住職になったんだ。」


宇宙真理を仏教の中に見出した、と語るその方のようなご住職は、むしろ少数派なのかもしれません。

こんなお仕事に携わっておきながらも、死というものの捉え方に迷っている私にとっては、目から鱗のようなお話を聞かせていただきました。
posted by ヤマモト at 11:43| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月21日

創立者の死

こんにちは。
今日は少し早い時間の更新です。

さて本日のタイトル、何かあったのか、というようなタイトルにしてしまいましたが、実は懇意にしている葬儀社様の創立者がお亡くなりになりました。

2代目さんとは仕事を超えた関係で、プライベートも共にすることがあるのですが、彼にとってはおじい様に当る方です。

電話を受けて、何か手伝えることはないか、そう考えて出向いたのですが・・・

「今回はお客さんでいて欲しいんです」

そう言う彼の表情は、なにかこう・・・決然とした意思が感じられました。

家族として、そして人生と、仕事の大先輩に対しての敬意、

そういったものが彼をして、そう言わせたのでしょう。


誰かの力を借りず、自分の力で、自分なりに送る事が 何よりもの、最後にできること


葬儀の原点を垣間見たような気がします。

「もしこの間に仕事が入ればサポートをよろしくお願いします」

私も気を引き締め、ご葬儀に参列させていただこう、そう考えています。

彼は年齢は私よりも6つほど下ではありますが、こうして亡くなられた方を送る仕事をしながら、自分自身の大切な人を送らねばならない場面

私自身にも、充分にあり得る事ではあります。

彼が、おじい様をどう送るか、全て見届けよう。

そんな思いで、更新しております。

送る日は、暑くなりそうです。
皆様も充分に、ご自愛を。
posted by ヤマモト at 18:58| 高知 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

国歌

こんばんは。

またもや、お通夜の終わった職場からアップしています。

さて今回は、「国歌」について、少し考えて見た事を書こうと思います。

昨今では、君が代不起立問題などが取りざたされ、今日のニュースでは 不起立を呼び掛けした方が有罪判決を受けたとか・・・。

そこで各国の国歌の歌詞と君が代を比較してみたところ・・・

いやぁ、凄すぎますよ。外国の国歌は(汗)

フランス国歌:「進め、進め、あの汚れた血を我らの田畑に飲み込ませてやるのだ」

イギリス国歌:「敵を蹴散らし、潰走させ、姑息な罠をも打ち破りたもうた」

アメリカ国歌:「砲火の紅も 空に轟く爆音も 夜を徹して我が旗の 尚もかしこにあるの証なり」

中国国歌:「敵の砲火に立ち向かうのだ! 敵の砲火に立ち向かうのだ! 進め!進め!進め!」

韓国国歌:「南山の老松 鉄の鎧をまとい 風霜の変わらざるは 我等の気性なり」

どこも大変に勇ましく、それに比べて君が代は・・・・

牧歌的とも言うべきゆったりした流れと、穏健な歌詞。


不起立を呼び掛けるほどのものなのでしょうか、ね。
少し不思議なニュースに触れた気がしました。


posted by ヤマモト at 23:33| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月02日

祈り

こんにちは。
先日は横浜まで出向き、フューネラルビジネスフェアという業界内の展示会を見に行って参りました。

目新しいものがたくさん出品されており、どの業者さんも工夫を凝らし、次世代のご葬儀をいかに提案していくのか、そんな熱気にあふれておりました。


それとはまた違うお話を少ししようと思います。


非常にお若い方のご葬儀を受けることがあります。

天寿とは言えない、悲しみ色に包まれたご葬儀。

お棺にお入れするときの、ご遺族の悲痛な叫びや、
出棺の時の、非情とも言えるほどのお別れ。


悲しいお気持ちに、ケリを付けさせてあげる事が出来なかった。
葬儀社の限界をひしひしと感じるお仕事です。


損傷してしまったご遺体のお顔を復元する作業や、
ご家族と共に施させてもらうお化粧や
そんな汗、努力、
そんなこと全てを打ち消してしまうような、胸に迫る、悲しみ。

何ほどの事が、故人様に対して、ご遺族に対してできたのか?
いつも、自問しています。


納棺のとき、あえて席を外すことがあります。

ドアをそっと閉めると同時に、中からは湧き出してくるように、悲しみが聞こえてきます。

このお仕事が終わりを告げたら、残された方々、幸多かれ、と
せめてこのくらい。

故人様を挟み、ご縁をいただく方々への祈り。

いつも、そう、祈ります。
posted by ヤマモト at 18:13| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

大切なお仕事

こんばんは。
今夜も再び、お通夜の終わった職場からの投稿です。
オリジナルのメモリアルボードを制作しているのですが、最近では20枚を超えるお写真の加工が多くなっていて、時間といつも格闘しています。
イラストレーターとフォトショップを一生懸命使っています。

故人様を少しでも、身近に感じていただけますように、そんな願いを込めています。

マウスのクリックが数えきれないほどになったり、
睡魔が襲って来たり

それでも明日は、早くからの準備に追われることでしょう。

このお仕事も、1人の方をお送りするため、
あのお仕事もそうだった

そんな日々を送っています。

たった一度きりしか許されないお仕事です。
そして、同業他社は数多く存在しています。

そんな中で、選んでいただけるありがたさ。
葬儀屋冥利に尽きると共に、

スタッフもモチベーションを新たに、明日また、出勤してきます。

彼らの思いに応えられるよう、
ご葬家の願いに応えられるように。

そんな願いも、込めています。
posted by ヤマモト at 01:26| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月02日

昨日の続き!

連夜投稿しております。
昨夜は朦朧としながらのアップだっただけに、そこかしこに誤字や変換しかけた感のある見苦しい投稿になっていますが・・・

つまり、何を言いたかったのかというと、太古の昔から変わらず、私たちは「死」というものを、本質では全く理解していないのです。

理解できないものだからこそ、畏敬の念が生じ、そしてそれを人は畏れる。

死が理解できないのに、表裏一体となった「生」が理解できるはずもなく、そこに「生命」の解釈として宗教が生まれ、人はそれを信じ、ある意味、すがって来たのではないでしょうか。

一介の葬儀屋である私が、こんなことを考えるのはおこがましいのではありますが、昨日アップした記事の中にあるように、人類は文明を発達させ、大脳組織や容量すらも進化させてきました。

ネアンデルタール人やクロマニョン人、ホモサピエンスを比較すれば、大脳容積の差は一目瞭然であります。

しかしこの3者は共に、「生命」を理解してはいないのです。

ただし、ホモサピエンス、現生人類においては医学を発達させ、ありとあらゆる病気を克服してきました。

一見、「死」というものの本質をある程度見極めており、自由自在に生命を操れる、そんな幻想さえ浮かんでしまいます。

そこに大きな陥穽があるのではないでしょうか?

「死」=「肉体の電気的沈黙」ということは、誰でも理解できる「死によって発現する現象」です。

それをして、「無宗教」的ともいえる自分的「宗教」を作り出し、

「家族葬」
「密葬」
などなど。

いやはや。


「畏れ」があるからこその、葬儀でしょう。
最近の、「家族葬」「密葬」と、簡単手軽、そしてあたかも心のこもった、などと表現する手法に
「ちょっと軽薄で商業主義的過ぎるんじゃないの?」
と、違和感を抱いてしまうのです。


無論、小規模のご葬儀を否定する気持ちはさらさら無く、各家庭、各家族なりのお送りの仕方があってしかるべきだと思っております。
それぞれの事情もありましょう。
しかしそれを葬儀社側が、「家族葬」や「直葬」という風に規定し、マニュアルのないように見せかけてのマニュアル通りのご葬儀をお勧めする、なんてのは、これは本末転倒ではないか、と。

そこに「生命」に対しての「畏れ」は存在するはずもなく、もしも大切なお仕事をしているという考えがあるのならば、もっと本質を感じ、掘り下げてもいいのではないか、そんな風に思っています。


私自身、生命がなんであるか全くもって理解できない凡夫です。
だからこそせめて、「畏れ」だけは忘れずに この「送る」というお仕事をさせていただいております。
posted by ヤマモト at 21:25| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昨今の書籍

こんばんは。
久しぶり、本当に久しぶりの更新ですが、皆様いかが過ごされていらっしゃいますか?

年度も明けてすでに2カ月余り、私たちの暮らす街の葬儀社出店ラッシュを1年経過しつつ、どうにか予想以下の成績低下で新しい年度を明ける事が出来ました。

ま、多少の事は覚悟していたのですが、それでも支え続けていてくれるお客様があったれば、のこと。深く感謝申し上げます。

ところで今回は、書籍、と銘打ってお話をしようと思います。

昨今では、私たちの業界にも少しマスコミの光があたり、書籍も本屋さんで普通に見られるようになりました。

各方面で語られ、耳にすることも多くなりつつあるご葬儀のこと。

その傾向としては、好ましいとは思っております。
今までむしろ、スポットが当たる事のなかった業界に、新しい風が吹き込んでくること。

そのこと自体については異論はないのですが・・・

ただ、最近気になるのは、あまりにお葬儀社目線で語られるお話が多すぎると言う事でしょう。

年をとる準備として、自分自身のご葬儀のあり方を模索する、そのこと自体はいい事のように思います。
ですが、なんというか・・・タイトルで、自分自身の人生を振り返ってみてどうですか?という、壮大なテーマをかかげつつも、読み進めるに従って「家族葬とは」とか、「密葬とは」とか、そんなことにテーマを絞ってしまう書籍が多いように思われるのです。

はたしてそれって、本当に大切なものなのでしょうか?
葬儀ガイドを、一般の方はそれほどに必要としているのでしょうか?

私見かもしれませんが、核家族化、そして宗教観の不明確さが顕著になっている今だからこそ、もっと根本的な部分から、「葬儀」というものを考えてもいいのではないか、と思うのです。

人が人を送る行為、儀式として、ご葬儀は太古の昔から人の間で存在しておりました。
イラクでは、ネアンデルタール人が死者に対し、花を添えた痕跡が残っており、それほど「死」に対して人類は畏敬をもって扱ってきました。

ただここに来て、ネアンデルタール人よりもはるかに文明の発達した私たちは、何をもって「葬儀」となすのでしょう?彼らより、人を送る、という行為について私たちは何か特別な進化をしているのでしょうか?

そう考えると、昨今出回っている「家族葬のすすめ」的な書籍は、何かこう、葬儀社のセールス書に思えてならないのです。

独特な形を模索しているのは、どの葬儀社さんも同じだと思います。

しかし、それが行きつく先は、
「家族葬」?
「密葬」?
「直葬」?

カテゴリー分けは色々とあると思うのですが、葬儀に対する「畏れ」ははたして、そこに存在するのか?

「畏れ」のないガイドは、単なる商業主義の産物ではないでしょうか。

応えの出ない問答を、禅問答と申しますが、つらつら、お通夜の夜にナレーションを作成しつつ、考えてしまう深夜です。
posted by ヤマモト at 02:50| 高知 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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